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葛飾区の歴史

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 先史時代・原始時代

東京低地の登場はおよそ13万年前にさかのぼると言われています。最後の氷河時代には北半球の海水面は現在より約100メートル低い所にあったと言われています。東京湾はそのほとんどが陸地となり、葛飾区は台地とそれを刻む深い谷になっていました。富士山から降りそそいだ火山灰が東ローム層と呼ばれる赤土層となって葛飾区の地下にも堆積しています。武蔵野や下総の台地では原始の人々が狩りをして生活していた。その頃は東京湾はなく、東京低地から質水道にかけて古東京川が流れる大きな谷となっていた。下総台地も葛飾区の柴又あたりまで張り出していて、そこで繰り広げられた人間活動の足跡は柴又河川敷遺跡から発見されているそうです。

 奈良時代・平安時代

奈良時代の資料によると、大嶋郷は甲和(こうわ)・仲村(なかむら)・嶋俣(しままた)の三里から構成され、各里の位置は、甲和は江戸川区小岩、嶋俣は柴又と考えられています。この時代の葛飾区は現在よりもっと海岸線が内陸にあり、利根川の乱流によって形成された低湿な土地が広がっていました。平安時代には仏教も地方にも浸透し、都では藤原氏を中心とする貴族政治が栄えますが、葛飾区地方は恒武平氏の流れをくむ葛西一族などの武士によって支配されていました。

 鎌倉時代・室町時代・戦国時代

鎌倉時代には、葛西氏という将軍に仕えていた武士が葛飾区に住んでいました。葛西氏は桓武平氏の流れをくむ家柄、平安時代に隅田川以東の葛飾区・江戸川・墨田区辺りを開発した方です。名字はその地名「葛西」を冠したものです。そして戦国時代、1454年に足利氏が起こした享徳の乱を契機に関東は全面的な戦乱状態となります。葛西地域は旧利根川を境に足利氏と上杉氏が対峠する軍事的な要所となりました。 長い戦いの後、後北条氏の勢力下に置かれ、関東に覇権をのばした後北条氏も、天正18年豊臣秀吉の小田原攻めによって滅びることになります。

 江戸時代

天正18年(1590年)徳川氏が江戸に移り、関ケ原の戦いで豊臣氏を滅ぼし、慶長8年(1603年)江戸に幕府を開きます。徳川幕府は手はじめとして、江戸市内とその周辺地区の開墾を進めました。長引く戦乱の為荒廃した葛飾区地方も各所で開拓が行われ、四つ木、奥戸、小菅、細田、小合などの新田村が成立したのもこの頃と言われています。 葛飾区のほとんどは天領と称する徳川幕府の直轄地になり、関東代官の支配下に置かれました。村が行政の単位とされ代官の下に村方三役人といわれる名主、年寄、百姓代がおかれ、最下部の組織として五人組が結成されました。葛西領は歴代徳川将軍家の鷹場に指定され、将軍の御成もたびたびありました。

 葛飾区の成立

昭和7年10月1日、東京市と近接する五郡八二か町村が合併する事になります。新宿・金町・水元・亀有・本田・南綾瀬・奥戸の7町村をもって東京市葛飾区が誕生した。太平洋戦争では他区にくらべ戦災による被害が少なかったせいか、復興も急進、加えて関東大震災同様に都心部よりの移住者と大都市集中化に伴う全国各地からの流入で葛飾区誕生からわずか40余年の間に約五倍の人口増加を示しました。

高度経済成長の時代を迎え、区民の生活も変化し、人口の流入による過密化・住宅難・交通難・公害などの問題が生まれることとなります。農地の激減とともに急激な宅地化が進むと、かつての農業の源であった用水も暗渠や埋立となり江戸時代の農村の佇まいを保っていた葛飾区も大きな変貌をとげましたが、暮らしを改善するゆとりが人口減少と共に生まれ、親水公園の整備やまちづくりによる新しい景観づくりが盛んに行われました。

(葛飾区資料提供)